読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

海の中に沈む

海塚の企画・メモ・キャラ用ブログ

4/2 フリーワンライ

ジャンル:オリジナル,お題:砂浜に足跡は残らない

 「おや、またあんたかい」

 目の前に座る奴はそう口を開いた。相席可能で、深夜営業の喫茶店。帰る途中で明日は休みだからと入った場所。相席の許可を求める言葉に頷いたのは誰でもない自分である。こんなことならば大人しくひとり席に座ればよかった。

 こんな奴と面識など、あっただろうか? 首を僅かに傾けて愛想笑いを浮かべた男は「申し訳ありません、人違いではないでしょうか」と告げる。いいや、こんな人間に覚えはない。

「どうだろう。そうかもしれないし、違うかもしれない」

「はあ?」

 どこか馴れ馴れしいそいつは意味の分からないことを言う。なんなんだ一体。厄介な人間と相席になってしまったものだと、心内で舌打ちをひとつ。ゆっくり過ごすつもりだったのに。

 自身を恨んでいるところに従業員が運んできたのは、目の前と同じコーヒー。どうやら男と同じものを頼んだらしい。苦いなどとこぼすなら頼まなければいいものを。こちらが立ち去った方が早いだろう。

 そこまで考えて、自分の頼んだ料理がまだだったことを思い出した。

「あなたは僕のこと、覚えていないんですよね?」

「残念ながら」

「いいえ、当然です。それに良いことを教えてもらった。ありがとう」

 せめてもの暇つぶしに答えてみるが、まったく意味がわからない。先に運ばれて冷めてきたコーヒーを飲みながら、再び顔を——ただし今度は盗み見るように——見つめて、記憶の糸を手繰り寄せる。

 どこだ? 小学、中学、それとも高校? いや、同期ならあんな言い方はしないはず。となればどこか、今回のような相席相手?

「ねえ、運ばれてきたけど、きみの?」

「……あっ、はい。すみません」

 慌ててカップをテーブルに置いて、運ばれてきた食べ物に口をつける。やはり、心当たりがない。

 それからもぽつりぽつりと会話を続けながら注文したものを消費する。

 もしかして、会話のせいで思い出せない可能性もあるのでは……いや、さすがにそれはない。考えすぎ、囚われすぎだ。なのにどうしてこんなに引っかかるのだろう。

 最後の一口を飲み込んで、席を立つ。荷物を持って、ジャケットに腕を通して、ああそうだ。

「そういえば、お名前は?」

 男は最後まで、目の前の人物を思い出すことができなかった。

 

「いやあ、また面白い実験結果が」

 他人からすればつまらないだろうが。独り言にそう加えて、冷めきったコーヒーを飲み干してしまう。

 人の記憶に「自分」はどのくらい覚えられているかという、実験。魔女の、魔法使いの存在が人の記憶にどの程度影響するのかという、実験。結果はゼロ、どころかマイナス。何ひとつ足跡を残さない。

 人の記憶はまるで、

「砂浜のようだ」

 今度は小さく呟いた。