5/6 フリーワンライ
君の甘さは気味悪い
足りないのは覚悟か勇気か
人魚姫は泡と消える
人魚姫は泡と消えると言う。声も出ず、文字を知らず、意思を伝える手段をなにひとつ持たないまま、王子のために消えるという。
はたして、その愛は美しいのだろうか。
彼女の瞳に映るのは愛しい彼で、私は彼女の恋が実らなければいいといつも思う。そのままいっそ、私のことを映してくれたらいいのに。
人魚とは違って私には声も言葉も自由も与えられたけれど、肝心の勇気がどこにもなかった。私が甘いのはそのためだと言えば、気味悪がられるだろうか。人魚は一心に想い続けて身を犠牲にしたというのに、想いを伝える勇気も居心地の良い「友人」の立ち位置を去る覚悟もなかった。実に残念だ。
身勝手な想いを抱えたまま、ゆらゆらと揺れながら小さな波を立てる湯に身を沈める。
ぶくぶく音を立てたところで泡になるはずもなく、ため息とともに湯船を出た。
だからだろうか、あんなにおかしな夢をみてしまったのは。
古びた木造の一軒家。淡い光に照らされた屋内は、ランプのせいでうっすら黄色掛かっている。アクセサリーから文房具、なにからなにまで丁寧にラベリングされている。その几帳面そうな棚とは裏腹に、商品名といい奥に座る若そうな店主であろう人物といい、実に胡散臭い店だった。人魚飴、なんて誰が買うんだそんなもの。メルヘンチックにもほどがある。
「いらっしゃい」
声をかけられるとは思っておらず、肩が跳ねた。今のはどうやら店主のようだ。この空間にはふたりしかいないのだから、当然と言えば当然である。おそるおそる足を一歩踏み出して、壁掛け時計が立てた音にまた驚いた。アニメーションのような容姿の人物は実に楽しそうに笑いをこらえている。眼鏡の奥の暁色の瞳はしっかりとこちらを捕えているあたり、居心地が悪い。
「何をお求めで?」
そう問われても困ってしまう。
「なんでも叶うんだよ、ここの店は。好きな願いごとを言うといい」
「……はあ」
なにか返事をしなければ、と思ったところで思いつくのはおかしな言葉ばかりで、つい生返事になってしまった。店主の口元が吊り上がる。
「願いごと、なにもないのかい? そんなことはないはずさ、君からこの店にやってきたんだから」
そう、だっただろうか。どうして私は、こんな店に。そんな悩みをよそに、彼は言葉を紡ぎ続ける。
「友人? 家族? それとも君くらいの年頃なら、恋愛絡み? 学校なんてのもあるか」
よくもまあそんなに言葉を並べられるものだ。
「言ってしまえばいい、どうせここは夢なんだから」
「……」
ゆめ。二音がすとんと胸に落ちた。そうだ、私はあのまま眠ったはずだ。日常を壊されないように、いつも通りの日を過ごすために。なら、ゆめなら、構わないだろうか?
「恋を」
深く考える間もなく、口が勝手に開いてしまっていた。いいか、夢だし。
「恋を、したんです。叶わないのに」
とめどなくあふれる話に耳を傾けながら、店主は私のそばまでやってきた。商品棚に手を伸ばして、選び取ったのは小さな小瓶。商品タグには人魚飴。さっきの飴だ、と思った。なんてバカバカしいと思っていたけれど、間近で見ればその名が一番合っていた。無色透明の小瓶に、ソーダ飴のような、けれどもっと澄んだ水色の飴が数個転がっている。
「そんな君にはこれをあげよう」
勇気を与える魔法の飴さ。ただし、ひとつ注意すること。これを食べたら、決して海へは近寄らないこと。一生だ。約束できるね?
童話の魔女のような台詞とともに、小瓶を手の中に落された。
「お代は、そうだな。君の涙で」
目が覚めると部屋だった。少しサイズの大きいパジャマに寝癖のついた髪。やけに鮮明な夢を見たと思っていたら、手元から小瓶が転がり落ちた。
結論から言うと、私は泣くことがなくなり、勇気とやらを手に入れた。しかし私の恋は実らなかった。そりゃあそうだろう、彼女は別人に恋をしていたのだから。ただ、今でも友人関係は続いている。あのときの彼女は私の恋心などよりも、彼女に対する私の甘さが気味悪かったらしい。申し訳ないことをした。
年月が経って新しい恋をして、恋人を得て幸せな私にはすべて過去の思い出話。今の恋人はやたらと海へ行きたがる。そのためこうして意味の分からない思い出話をする羽目になってしまったのだが、どうにも私に甘い恋人様は「仕方ないなあ」と困った顔で笑ってみせた。もう長いこと、海へは行っていない。
今度、近くまでは行けずとも、海の見える場所にでも行こうか。目の前の彼女は嬉しそうだった。